
高速増殖原型炉もんじゅ(左奥)を前に「サヨナラ、もんじゅ」とシュプレヒコールを上げた全国集会=12月3日、福井県敦賀市の白木海岸
1985年に敦賀市白木で建設が始まったもんじゅ。プルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料を使い、消費した以上の燃料を生み出す「夢の原子炉」との触れ込みだった。だが、原発の危険性を訴える側にとっては、菩薩(ぼさつ)の名を冠していても「悪魔の原子炉」だった。
実用化された商業炉と異なり、もんじゅは研究段階の原型炉。核兵器になり得るプルトニウムを燃料にする。冷却材のナトリウムは水や空気と激しく反応し、漏れれば重大事故につながる。建設前から激しい反対運動が巻き起こっていた。
82年7月に敦賀市で開かれたもんじゅ建設の第2次公開ヒアリングは、1万人(県警発表で5800人)のデモ隊の怒号と約2千人の機動隊に囲まれた。昭和30年代、「地元の熱心な誘致」によって立地が実現した日本原電敦賀1号機や、関西電力美浜原発1号機のような牧歌的な環境はもんじゅになかった。
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原発訴訟の象徴ともされ、原子炉設置許可処分の無効確認などを求め85年に提訴した旧もんじゅ訴訟でも、反対派は奮戦した。当時は建設準備が進んでいたが、重要な情報は公開されていなかった。訴訟原告団の事務局長を務めた故小木曽美和子さんは「もんじゅを止める手がかりになる情報を少しでも引き出すには、訴訟を起こすしかない。最後の道だ」と語っていた。
提訴から10年たった95年12月8日、反対派の指摘は現実となった。ナトリウム漏れ事故が発生し、有害なナトリウム粒が4千平方メートルにわたり拡散した。原告側証人として法廷にも立った故高木仁三郎・原子力資料情報室代表が「可能性として発生の恐れを指摘してきた私でも信じられない」とあきれ返るほどだった。
裁判所の判決は大きくぶれた。2000年の一審福井地裁は訴えを棄却したが、名古屋高裁金沢支部は03年、設置許可を無効とする逆転判決を下した。原告側にとって原発訴訟で全国初の完全勝訴で、運動の到達点の一つとなった。しかし最高裁は05年に二審判決を覆し、原告側は涙をのんだ。
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もんじゅは廃炉に向かうが、作業中の事故のリスクは続く。国は高速炉開発の継続を崩さない。旧もんじゅ訴訟の原告団の一人だった中嶌さんは「もんじゅ反対に半生を懸け、亡くなられた人たちの努力なくして廃炉決定は迎えられなかった」とする一方で、「ナトリウムやプルトニウムの管理は、動かないから安心ということでは決してない。喜んでばかりもいられない」と気を引き締める。現在は、もんじゅの原子炉設置許可処分の取り消しなどを求め、新たに15年12月に東京地裁に提起した訴訟では原告団共同代表を務めている。亡くなった仲間たちの思いを胸に、監視し、闘い続ける。=おわり=