「もんじゅが来なかったら、この村は9分9厘残っていなかった」。高速増殖原型炉もんじゅが立地する敦賀市白木に住み67年間、区の生活やもんじゅの記録を墨で和紙に書き続けている元市議の橋本昭三さん(88)は思う。かつて「陸の孤島」だった15軒の白木区は、もんじゅ誘致で暮らしが良くなった一方、事故やトラブルで苦悩も交錯した。政府の廃炉決定で、四十余年にわたり国策に協力してきた区の未来は荒海に投げ出された。(青木伸方)
敦賀半島の北西端にある白木区は、昔から半農半漁の生活を営んできた。食糧や土地が限られるため、分家は禁止。1950年代ごろまでは、敦賀市街へ行くには山越えの道を5〜6時間歩くか、船に乗るしかなかった。「病人が出たら背中に担いで峠を越えた。雪が積もれば市街まで一日仕事。厳しい生活だった」と橋本さんは振り返る。
転機が訪れたのは70年2月11日。当時区長だった橋本さん宅に動力炉・核燃料開発事業団の職員たちが訪れ、もんじゅ建設を打診してきた。橋本さんの墨書に記された「開村以来の重大な問題」は、集落移転の懸念があり区の総会でいったんは反対。だが翌年、集落から北東に1キロ離れた棚田への建設予定地の変更で、区は誘致を了承した。
「区は国策に協力し、国と動燃は地域振興する、というのが条件だった」。当時は半島の美浜町丹生区などに原発が建ち、立派な道路ができていた。白木区周辺は林道のままで、区民には取り残される危機感もあった。
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誘致で白木区には道路、トンネルが整備され、区民はもんじゅの職員や協力会社の社員として働くようになり、地場産業に定着した。
だが発展の一方で、風評被害にもさらされた。95年のナトリウム漏れ事故時、市会議長を務めていた橋本さんには就寝中に電話で一報があり、対応で眠れなかった。事故後、白木海岸に訪れるダイビング客や海水浴客が減った。
もんじゅでトラブルが起こるたび、橋本さんは所長や幹部職員らに「安全安心が一番の条件だ」と叱ってきた。近所に住み、国策に協力している誇りがあるからこそ「安全に研究を進めてほしい」との願いが強かった。
橋本さんは今回の廃炉決定を「国の地元無視のやり方は、ふに落ちない」と怒りをあらわにする。しかし「数年前、職員の気が緩んでいたと感じたこともあった。もんじゅが動かなくなっても、組織はちゃんと立て直してもらわなあかん」と叱咤激励した。
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もんじゅと命運を共にしてきたのが、区の名前を冠した株式会社「白木」。区民が出資して86年に設立した。食堂や売店を営むほか、もんじゅの事故時の緊急要員、関連施設の清掃などの業務を担い、売り上げのほとんどはもんじゅ関連だ。従業員はパートを含め20人を雇っている。
これまでは歴代の区長が社長を務めてきたが、坂本勉区長(61)が「若手に将来を託したい」と、前区長の次男の畠準史さん(32)をスカウト。今年4月に就任した。
廃炉で多難な船出となった畠社長は政府決定に「地元に何の話もなく、勝手に決めている。約40年間の国策を簡単にとん挫させていいのか」と憤る。廃炉作業への参入も視野に入れるが「(廃炉完了の)30年程度で会社も一緒に終わるわけにはいかない。もんじゅと関係のない新規事業を立ち上げていくしかない」と前を向いた。
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